「夜と霧」 V.E.フランクル 人間とはなにかを知るための一冊~その1~

原題は「強制収容所における一心理学者の体験」。邦題はヒトラーの発した、ナチスドイツに反する人間を秘密裏に強制収容所に送るという、夜と霧作戦に由来します。

ホロコーストを扱った書籍としては、豊かな感性を持った一人の少女の目によって記述した「アンネの日記」が有名ですが、この作品は、一人の精神科医が実際に被収容者として体験した事柄を、冷静かつ客観的な目で記述したものです。

「アンネの日記」は様々な形でこの国でもいまだ話題になり読み継がれていますし、映画でいうと「シンドラーのリスト」、「ライフイズビューティフル」などはテレビなどでもたびたび放映される人気作品です。そしてこの「夜と霧」は、人類の歴史上もっとも偉大な書籍のひとつといっていいものだと思います。私が個人的に非常に思い入れが強いのと同時に、現代に生きるありとあらゆる人に対して、人間とは一体なんなのかという大切な示唆を数多く与えてくれることは間違いありません。

描かれるのは過酷な強制収容所での生活です。それは突如としてあまりにも理不尽に、ユダヤ人という高度な教育を受け、文化的な生活を営んでいた人たちを襲いました。そこでの生活においては、それまでに身につけてきた教養や文明というのはなんの意味も持ちません。ただ生身の人間として目の前の事態に対峙するしかないのです。文明人の目を持ちながら、改めて原始的な人間存在の本質に向き合う。その体験が体系的に文章としてまとめられた意義は、計り知れないものがあります。

食事は、一日に薄められたスープ一杯とパン、それにおまけ程度の副菜。末期には一日にパンひときれ。最悪の衛生状態。過酷な奴隷労働。暴力、拷問。厳しい寒さ。

肉体的にも精神的にも、その苦痛は想像を絶するものがあります。まさに考えうる限りのこの世の地獄といえるものです。

多くの人たちがガス室送りになりました。また暴力や銃の犠牲になったなった方も少なくありません。それ以外にももちろん、飢えや病で命を落とした人が大勢います。しかしこの書籍は、人間というのは希望を失わない限り、どこまでも強くたくましく、極限的な状況に対しても適応して生きていけるということを教えてくれるのです。

現在の社会においては、ほんのちょっとしたことで体に良いとか悪いとかいう議論が巻き起こります。しかしそれらのことがいちいちいかにナンセンスで馬鹿げているか、改めて気づくことのきっかけになるのではないでしょうか。

ちなみに著者のV.E.フランクル氏は、強制収容所から解放されて以降、学問や講演などの世界で幅広く活躍され、1997年に亡くなりました。その歳92歳で、見事に天寿をまっとうされたといっていいでしょう。このことの持つ意味は本当に大きいと思います。

すべての人に読んでほしい必読の書です。


*新版と旧版について

現在この国において、1956年に刊行された旧版と、2002年に刊行された新版の両方が手に入る状況です。それぞれの違いについて簡単に説明します。

まずは大前提としておさえておかなければいけないのは、著者のフランクルによって原著も改稿されているということです。そこでは用語の使用や、エピソードなどに変更が加えられています。旧版は原著の旧版を下敷きに、新版は原著の新版を下敷きとして翻訳されています。

旧版と新版では翻訳者が違います。旧版の翻訳文体はごつごつして硬質な感じ、新版ではより読みやすくなっているかと思います。また字の大きさが新版のほうがだいぶ大きく、その面からも読みやすいといえるでしょう。

しかし、その字の大きさにも関わらず、旧版のほうが圧倒的にページ数は多いです。これは旧版に資料的な補足が多いからです。冒頭には当時の強制収容所に関する二段組70ページに及ぶ解説、巻末にはその状況を伝える豊富な写真と図版が収められています。この書籍が刊行された当時においては、強制収容所に関する情報はまだ限られていたことを考えると、とても貴重なものだっとことは想像にかたくありません。ただ現在では関連書籍なども多く出版され、インターネットなどでも比較的情報を入手しやすいことを鑑みると、その意味合いは薄れているといえるでしょう。

また旧版における訳者および出版社による前書きや後書きは、見方によって偏向的と受け取れる部分があり、どこまでも冷静で客観的であろうとした本文との違和感を若干感じさせるかもしれません。ただこの国においてもまだ戦争の記憶が生々しい時代に出版された書籍ですので、時代背景を考えるとやむをえないところはあるでしょう(ちなみに新版のほうにも旧訳者のあとがきという形で、旧版に加筆修正してその文章は収録されている)。

以上いろいろ述べましたが、読みやすさなどを含め総合的に考えると、まず手に取るのは新版のほうをお勧めいたします。